マイ・ストーリー〜見えない世界への傾倒編〜②
前回はおまじないの本にはまってしまったエピソードで終わりました。
良くない方法は別として、いい方法が沢山載っていたので、様々試しました。
ただ、全然効果を感じる事ができず、実践はそこで打ち止めになります。
(もしも効果を感じていたなら、もっと違う方向に行ってしまっていた様な気がします。ブレーキをかけてくれたんだ、、、と解釈しています。)
ここで、ただ偏重はしていてもやはり凡人には変わりないという事をまざまざと見せつけられたのは言うまでも有りません。
その後、何年間かは、面白い(と思っていた)少年として過ごします。
ただし、その事にはどんどん気付かされて行く事になります。もっと根っから面白い少年が沢山いますし、自分のトーク能力…というか、元々話しをしたくないんだ、という事を潜在的に気付く事になりました。
ここでも無力感を感じますが、後でも述べる様に、努力する方向を間違う傾向があるみたいです。
積み上げて、実力を高めて行く、という事を実践し始めるまで、このループから抜け出せなくなっていました。
再び見えない力に興味を持ち始めたのは、小学五年生ぐらいの事でした。
「孔雀王」という漫画が有ります。
その実写版が映画になりました。
金曜ロードショーだったと思いますが、あの哀愁のオープニングが始まると、ワクワクしてTVの前で構える様になっていました。
そうやって期待して見た訳ではなかった映画だったのですが、そのサイキックな世界観に強く引き込まれました。
あらすじは、密教の僧として、力を操る主人公が、世界の危機を救う為に悪と戦い勝利するというものです。
「九字切り」という密教の作法が出てきました。
「あ!おまじないの本に書いてあった物だ!」
と思い、その後すぐに九つの印(手を組み合わせて作る形(よく、カエルの顔を手で作ったりしますが、あれに似ています))と、九字切りという作法を覚えました。
そしてほどなくして「3×3EYES」という漫画と出逢いました。
主人公と共に過ごすヒロインは「パールバティー」という露骨な名前。(インドの神話に出てくる神様の名前です)
どこからか調べてきてその事を知ってからは、どんどんその世界観にもはまっていきました。集中力は人並みはずれたものがあります。
主人公が使いとして使っているモンスターの頭には例外なく「梵字」(文字自体が神様などを表す神聖な文字の事)が書かれていたり、興味によだれを垂らす要素が沢山ありました。
友達と、「ごっこ遊び」をしたり、まるで見えない力が宿ったかの様な騒ぎです。
「力」というものを希求してか、どういう訳か武術との繋がりもありました。
少林寺や空手を何年間か実践していました。
見えない世界の力もまた、そんな「威力」だったのかもしれません。
ただ、もしも実生活で自己効力感を味わうならば、本当に必要としている力を蔑ろにする訳にはいかないという事実にも気付く事になりました。
梵字を学んだり、神話にはまったりする前に、出来る事があるという事に気付くのは、それから何年も経った後でした。
しかし、世の中に存在する事はすべからく何かのシステムに載っているという事を実感しますが、こういった知識もまた、後々色々なところで繋がってくるもので、その度に「アハ体験」の様な感覚を味わいました。
瞑想の本にも出会いました。
中ニの春、瞑想、と言うキーワードだけ携えてノープランで公民館の図書館に行くと、偶然瞑想ヨガの本を見つけました。
何故か受付を通すことをしなかった私は本をそのまま持ってきてしまいました。
本の内容は「自律訓練法」で瞑想状態を導く、更にその為にヨガのポーズを使ってみる、というものでしたが、
ここでも効果が感じられないばかりか、瞑想に対するトラウマだけが生まれてしまいました。
正しいやり方を順を追ってやらなかった為でした。
ちなみに、その本を書かれたいのは、今や有名な綿本彰先生のお父様でした。
それからほどなくして心理的な調子を崩しました。
薬を中学生から飲み始めると言う事になり…。
ヨガが効果が有るだろうと思い、最寄駅の駅ビルよカルチャーセンターに通います。
そこでは、インドの聖人の写真に向かって拝み、彼らが書いた自己啓発書を勧められる、と言う、今のような意識の高い世の中ではない時代に、あからさまに怪しい団体がレッスンを行なっていました。
ただし、ここでも効果が出ません。
その後ヨガの効果を感じるまで、三回程始めてはやめ、を繰り返しました。
効果が出なかったのも、何か意味があるのだろうと今となっては思います。
そんな小中学生を経て、その後取り組み始めたのは「アート」の世界でした。
次回は、アートの世界に傾倒した高校生時代に気付いた事を書いて行こうと思います。