グルーヴを刻んで行く

膝をとんとん叩きながら、その拍子に合わせて一定のメロディを口ずさみます…。

 

「とんとん」はリズムで、ドラムに当たる部分。

そして、ここではメロディは「ベースライン」。 

 

重低音の楽器である、ベースの音の流れを、ドラムの音に合わせて口ずさんで行きます。

 

最初は、ドラムの音を刻む膝を叩く手も、たどたどしいのですが、

 

段々、そのドラムを叩く手が上達していきます。

 

ドラムが上達していく、と言っても、ドラムを叩く音が複雑になるのは置いておいて…、

 

身体の中で鳴っているリズムが、どんどん自動再生されていきます。

 

身体の感覚的な一面…自然な躍動で、ドラムのリズムを刻める様になって行きます。

 

それに合わせたベースの音も、段々リズムと同化していきます。

 

…実は、ベースという楽器もまた、リズムの楽器なんです。

 

 

ドラムを叩く音は、「拍」と言いますが、

心臓の脈拍と同様、「パルス」と訳されます。

 

心臓の鼓動が生命の躍動を刻むのを感じる時に、心臓が無意識に動き続けているのを感じませんか?

是非、心臓に手を当てて感じてみてください。。。

 

ハートの持つ何とも言えない感覚が、心臓の脈拍を刻む音と一緒になって、内側から手に伝わる響きとなって伝わってきます。

 

そんな感じで、グルーヴの練習の方も、段々、リズムと身体が一体化していくのを、

練習を重ねていく内に実感していました。

 

…実は私、リズムには疎い音楽プレイヤーです。

 

歌とメロディは奏でていても、リズムはちぐはぐだし、何より、想像しようとすると凄く無理をしなければならなくなってしまいます。

 

そういった理由があって、今から!リズムの勉強をしています。

 

ちなみにこういった、抽象度の高い、生命の躍動とも言うべき、心と身体が踊る様なリズムの感覚を一言で、

 

「groove(グルーヴ)」と言います。

 

まるで、小手先の技術だけでは音楽が成り立たない!と言われているかの様ですが、

このリズムの根幹がなし得て、初めて、人の心に伝わる演奏が出来るんですね。

 

よく

「泣く子もグルーヴする」

などと言われるミュージシャンがいたりもしましたが、

 

心と身体がグルーヴしていて、その根幹から発せられる音楽は、

聞く人さえもグルーヴさせてしまいます。

 

その演奏家と聴衆の間をつなぐそのグルーヴの感覚が、万人共通のものだからこそ、聴覚や触覚を通じて私達の中にとけ込んでくるんだと思います。

 

内面の輝きを増せば、周りに伝わって行くのは、

「本当はこういう姿が理想」

という理想の状態、何だかいいな、という状態が、

 

「全ての人に共通だ!」

 

という事実を伝えているのと同じ事が音楽でも起こっているのはとても不思議で、神秘的だと思います。

 

自由な表現の楽しさに心が生き返りました。

今日は早朝からの仕事を終え帰宅。

そして、定禅寺通の並木道の見える、「東京エレクトロンホール」のリハーサル室へ。

…私が出演する為の稽古とかではないんですが(だとしたなら、快挙!ですが)

その一室を、スペースとして借りて行うワークショップに参加してきました。

 

バイタルダンスというフリーダンスのワークショップにご縁あって。

 

今日の私はというと、少し余計な物を削ぎ落とした様な気分です。

ここで、何かを解放したなら、更にいいバイオリズムに乗れそうな気がする!

…と思い、参加しました。

いざ参加してみると、それは未知の体験でした。

 

普段、家で踊るときは、なるべく激しめの曲をかけて、狂った様に踊る…というのは、私の様なタイプの人間は、激しめの運動をすると良い、と何かで読んでから続けているのですが、

 

今回のフリーダンスは、とても優しい印象でした。

かける曲も、こだわった、癒しのエッセンスのあるものや、楽しげな印象の曲をチョイスしているようです。

普段家で踊っている時には出来ない様な微細な広がり方で、身体から動きが展開して行くのを感じる瞬間もありました。

 

「リズムを聴くというより、身体でエネルギーを感じながら、それに共鳴した心と身体の躍動を、最初は緊張したり、これが正しいというやり方にこだわるかもしれませんが、自由に表現してみてください。後はちょっといした指示を出します。」

 

その言葉どおり、最初はいつもの癖で「こうやったら良く見えるかな」という思考が止まりませんでした。

 

しかし、今お世話になっている黒澤全先生から最初に伝えられていた「感情や思考を観察する」という考え方や、ヴィパッサナー瞑想や、マインドフルネスを使う事を少し鍛えて、人生に加味していたところなので

「それはそれ、有っていいけど、飲み込まれない」

というスタンスをキープして、段々と踊りの表現が自由になっていきました。

 

このワークショップの一連の流れの中には、何かたゆまない素晴らしい叡智や智慧が存在しているのだろう。と、勘付いていましたが、その「知性」の存在にもとても惹かれるものがあります。

 

最後には涙涙で終わるワークショップ。とても有意義な時間が過ごせました。

 

エネルギーを蓄えた感があったので、帰りの車の中で曲を考えました。

 

「今の時点での自分に出来る、誰かの心を照らす様な活動とは?」

と考えながら、自分の色合いを使って、光を外に伸ばす様なイメージをして考えました。

 

以下、降りて来た歌詞です。

 

「そよ風に聞き耳を立てて」

 

進んでも 進んでも

先の見えない夜がある

星屑の一つ一つは

帯の様に光を垂らし込むけど

その一条の光を求める心こそが

自分と世界を照らす「光」なのかもしれない

 

壊れそうなハートを抱きながら

風の波が次々と襲って来る

ハートは下に落ちて

粉々になってしまいそうになるけど

その風は、本当は

そよ風の様に

優しく、柔らかく私たちを包んでいるのかもしれない

今ならそう感じる事が出来る自分がいる

 

あなたにとって、「真実の光」とは何ですか?

私にも、あなたの心の中に渦巻く、悦びと、悲しみと、怒りのストーリーを

そっとそよ風の様に伝えて欲しい

私の心の器の大きさでは

その全てを受け止めきる事は出来ないかも知れないけど

そよ風のメロディに聞き耳を立てる様に

あなたの心に耳を傾ける事ぐらいは出来るかもしれないから

 

 

 

…以上ですが、肝心の降りて来たメロディを記録しませんでした。

 

教訓:やろうと思った時にすぐに行わないと、タイミング・チャンスを逃し、後悔も残す事になる。

 

 

…ところで、今回のワークショップの中で感じた事の中で、後から熟考していると分かる事がありました。

 

それは…

「自分を満たす事が出来るから、周りに思いやりを分ける事が出来る」

という事でした。

 

過去、傷ついた時に生まれた感情のエネルギーを癒し、元の状態に戻るという事は、エネルギーで心を満たす悦びの体験。その光の泉に満たされた心からは、こんこんと光が湧き出て来る。そうやって初めて、周りに光を放つ事が出来るんですね。

 

今日はとても良い一日でした。

また明日も素晴らしい日であります様に!

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

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気づきを前に活かす発想

今日の事なのですが、朝仕事から帰って来て一番に、未来日記を書きました。

 

未来日記というのは、その日のうちにする事を朝の段階で書いておいたり、夜寝る前に朝やる事を書いたり、、、そして、その決めごとを忠実に守って行くという習慣です。

 

私は今朝、

「水を味わって飲む」

と言う約束をしましたので、その通り、水を味わって飲んでみる事にしました。

 

…但し、実は口の中の粘りが気になっていて、特に解決法も探らずにいた数年前の事。口の清涼感を求めて、舌の中心を歯ブラシで磨くという荒療治をしていた事があります。

それ以来、舌の中心で強い味覚を感じる事が少なくなってしまっていたのです。

果たして、「水の味」を味わう事が出来るだろうか…?

一種の挑戦でしたが、やってみて色々と気付いた事がありました。

 

水一つとっても、こんなに気づきがあります。

気づきを産むという事は、外から自分を見つめる為の旅としても認められる作業ですし、

それを下記の様に見つめる事は、その一つ一つが、「先に進む為の材料」として採用出来る事として有用な情報になり、それを見つける作業でもあります。

 

 

気づきをうまく活かすと、人ととの関係にも洞察が生まれます。

自分との関係にも洞察が生まれます。

深い所で理解出来ると行動が代わり、行動が変わると習慣が変わります。

 

 

一つのルートに固執しないと、違うルートが見えてくる

 

舌の中心では案の定、味を強く感じませんでした。

しかし、舌の側面や、中心を補った全体で、強く味を感じました。

 

例えば、車のナビが例に挙げられますが、あるルートを外れても、必ず違うルートが導きだされます。

ちょっと、うざったい時などは、元のルートに戻る為の道筋が表示され、アナウンスされたりもしますね。

「この道しかない!」と決め込んでいても、実は他の新しいルートが有った事を知って、ほくほく顔になったりする事もあるかもしれません。

 

ある目標に向かう時、自分のやり方や、決め込んだ方法にとらわれないで、オープンでいると、まるっきり違う所から答えがやってくる事もあるんだな。

…などと深い洞察が生まれました。

 

また、「思い込みは、全体の補完性や調和を乱す事になる」という気づきも。

 

心をオープンにして、味を味わう事を感じようとしないで、

「私は味覚が薄いから」

と思い込んでいたら、味を感じても気付かなかったかもしれません。

 

これは、「自分は◯◯だから」「あいつは◯◯だから」「日本は、世界は、宇宙は、◯◯だから」と

自分の体験を決め込んでいると、外側からの何らかのメッセージや助力を見失う事になる、という事も導きだす事が出来るという事が言えそうだ、と思いました。

 

先入観で水を味わっていました。

冬の朝、冷たい水道水を飲むと、少し和らいだ身体の中心に冷たさが走ったり、

知覚過敏だったりすると、歯に染みたりして

「ひゃーーーーーー!」

という事になったりします。

 

今日も仙台は案の定寒い気候でしたが、

私はいわゆる「崇敬する神社」が近くにあって、外にある美味しい井戸水を一週間に一回ぐらいタンクで汲んで帰ります。

台所に置いてあるタンクの水は大変冷たくなっていました。

 

水の甘さを感じる時に、この冷たさが重要な気がするのですが、

この「甘い」という感覚、ジュースとかとは種類が違うな、と勘付いたのでした。

 

「砂糖」という概念が、知識としてあると、体験に結びついてそれなりの体験の感覚が生まれるのだ。と気付いたのです。

 

水が甘い、だともっと生物的な物を感じます(私は)。

有機的な感じ、、、とでも言うべきでしょうか。

 

体験に対し、先入観という思い込みが、色をつけているのだと気付いたのですが、私の場合、「水」というものに対し、そして「砂糖」というものに対し、なにがしかの色合いをつけている事になるな、と思ったのでした。

 

「思い込み」を変えたなら、どうなるかな?と思いましたが、試しませんでした。

 

皆さんも、何かを味わう時に、これは「光だ」とか「闇だ」とか色々色づけをした上で、感じてみると、自分なりの気づきがあるかもしれません。

 

そこに無理が生じたり、感謝を感じられたり。

自分の傾向や、世界の光の側面にフォーカス出来るなど、色々な良質な気づきが生まれます。

 

「気づき」とは「前に進む」為のマイルストーンだと思いました

私はどうも、何かを準備している時や、

自分のスペースに色々なものを揃えて便利空間にして時間を過ごすのがとてもリラックスする時だったりするのですが、

行動する時に準備がとても必要な人にはとても良い話になるかもしれません。

 

「水を飲む」一つとっても、こんなに気づきを発見出来る可能性がある。という事は、日常の体験全てが、「無明からの脱出」に繋がると言えます。

それはつまり修行です。

 

そして、「修行」って何なの?と考えた時、

「悟りに向かう為の積み上げ」

という認識を選択するとしたなら、

悟りに向かう為の準備を着々と進めている時。とも取れます。

それは、様々な「気づきというきらめき」の光のつぶつぶを沢山ストックするという認識の選択も出来ます。

(勿論、過ぎ去る道程として見るならば、未来志向の素晴らしい人です。)

死後、連れて行ける資産は、「体験」だけですよね。

 

こうやって、時間の蓄積を素晴らしいもので積み上げて行くとなる時、

ある種の人は、その場面場面の写真を自分の中に集めている感覚を得ます。

 

私はそれがとても心地よいのですが、それは自分の空間にいる、「今ここ」をとても快適なものにしてくれます。

 

そこに居座るだけでなく、それが自らの成長に繋がる事だとしたなら…一石二鳥でとてもいい結果を招き導く事が出来そうです。

 

「今ここ」にいる事を実感出来る為の、1️⃣方法にもなりますし、2️⃣道筋としても採用出来る場合がありそうです。

 

「飲む」を考察

「飲む」を「呑む」と書く事も出来ます。

 

よく「竜脈」と言いますが、氣の流れに従って地下水は道筋を作り、そのスポットが地表に湧き水として出る所…という説を聞いた事があります。

 

パワースポットというと日本では神社でしょうか。

神社では水が湧き出ている所が沢山あります。

また、アメリカでも聖地として有名なマウント・シャスタでは水が湧き出ていて、日本でも売り出している「クリスタルガイザー」として有名です。

 

水をそのように捉えた時、「パワーに反応しやすい物体」とも捉えられます。

水には「氣」が転写されている可能性がありますね。

 

「呑気」というのは、「気を呑む」から、気滞が生じず朗らかな人、という説も聞いた事があります。

 

水を飲むと、特に朝、空っぽになった身体には染み渡って行きます。

「はーーーーっ」と、ため息が出る事もあるかもしれません。

 

水を飲むという事が、気をのんでいる、水を介したエネルギーを頂いている、と思うと、自然と感謝の念が現れるのは、

「氣」を受け取って、身体が反応しているからだ、と考えるのも面白いなと気付いたりしました。

 

 

 

…今回は、水を介した気づきについて、私の体験をひも解いてみました。

 

今、どんな状態でも、「感謝を感じる心」が有れば、全てが光で照らされる様な気がしませんか?

 

勿論、自分を酷く攻撃する環境に身を置いて、我慢して何も感じなくする事ではありません。

 

自分を大切に、その上で、誰かの事も大切にする優しさがあると、自然と身体も心も柔らかく、暖かく、軽くなって行く様です。

 

気づきは、前に進む為に与えられるメッセージです。

自分と他人がwin-winになる様な生き方をする為に、そして、その先にある本当に心が満ちている瞬間の為に。

 

日常の体験の中からでも、それは導きだせます。何かを感じてみる事も、今回の私の様に行ってみると、もしかしたら、いろんな気づきがあるかもしれません!

 

それを工夫していくというのも、一つ日常の生活に彩りを与えてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポジティブシンキングとは〜マインドフルネスの世界から読み解く

世の中は殺伐としている。そんな感じを感じる人もいるのではないでしょうか?

そんな世の中なので、自分自身の心も、いつの間にか殺伐としているという実感が。

イライラして子供に当たってしまう。

人のミスが許せない。

恋人を束縛してしまう。それは間違っているのは分かっているんだけど…。

人を馬鹿にする癖があるけど、どうしても変えられない。

心が粗いエネルギーに満ちていると、どうしても目の前の人を変えたくなったり、誰かに依存してまで心の荒波を鎮めたくなったりしますよね。

 

では、なぜ心の荒波が、短いスパンで現れて来るのでしょうか?

それを解決するのにはどうしたらいいのか?

考えてみたくありませんか?

 

そんな発想に役立つエッセンスと、コツを今回はお伝えしようと思います。

 

誰の批判が一番怖い?

 

渡る世間は鬼ばかりと言いますよね。

世の中、いろんな人がいます。

攻撃的な人、嫌みを遠回しに言う人、言葉で伝えずに態度でこちらを変えようとしてくる人…

など、自分の領域にずかずかと入り込まれる体験はよくある事と思います。

 

しかし、もしマインドフルネスの発想を取り込むならば、その経験を自分に批判的に解釈し、捉え、思考しているのも、他ならぬ自分なのです。

 

例えば、上司に大目玉を食らう事があるかもしれません。

その人の性向により、その場面での、上司自体、起こられている感覚、自分像。など、人それぞれ個性が出てくるはずですが、

「上司に大目玉」という現象は、実は独立して起きています。

それを通りがかりの人が見たら、当事者としての判断はせず、ほぼ感情に波は立たないはずです(可哀想とか、こんな怒り方をして!という判断は生まれるかもしれませんが、被害者感情を深く感じるという事は無い、という意味で)。

 

「当事者だからこそ、当事者として真剣に考えてしまう」

これがもし

「部外者だからこそ、部外者として冷静に見る事が出来る」

にすり替わったなら。と考えてみましょう。

 

判断という色眼鏡は、その人それぞれ違います。なぜなら、見ている視野、空間の配置、バックグラウンドの人間関係、心理的な立ち位置〜生まれ持った気質も含めて…と、同じ背景を持つ人は一人として他にはいないからです。

 

そうすると、「判断」というものの絶対値はこの世には存在しない…という事がお分かりでしょうか?

 

という事は、もしも色眼鏡を変えよう、という判断と意思さえあれば、

「上司に大目玉」

という目の前の事実も、違う判断で見られます。

(勿論、感情は強いエネルギーなので、最初のうちは飲み込まれる事もあると思います)

 

その発想を持って、この目の前の事と、それを捉えている自分の判断・解釈を見つめてみましょう。

 

もし、上司に逆恨みをするならば、上司を批判する判断をしています。

その時、何とも苦しい気持ちになるでしょう。

こんな風に扱われる自分。上司に反発出来ない自分。憎しみを持っているという自分、上司の言う通りならばそんな指摘を受けてしまう自分…

連動して、上司だけでなく、自分を被害者にしようと思い始めると、プライドはそれを許しません。このままでは駄目だ!という思いは、今の自分が駄目だ!「駄目だ」という言葉は対象を否定している言葉なので、ここでは自分への判断が「自己批判」になっています

 

…実は、一番自分の事を、そしてダイレクトにハートに向かって斬りつけているのは他ならぬ自分自身なのです。

 

想像してみましょう。もしも、自分を強く批判しない自分だったならば、目の前の苦しみはどれほど半減するでしょうか?

 

さきほど、感情に飲み込まれるという言葉を使いましたが、普段から私たちは「自己批判」という思考の波にも飲み込まれているのです。

 

それは正に罰ゲーム。

ゲームと書くのには理由があって、深い所ではそれを楽しんでいる自分がいる事を、冷静に分析したなら理解出来ると思います。

 

そして、自分の判断をやめられるのは、他の誰でもない。自分が決める事なのです。

それは、罰ゲームをやめられるのは自分なのだという事でもあります。

 

自分が決めてしまえば、もっと楽になれる。という事でもあります。

 

マインドフルネスの応用

 

最近、マインドフルネスが多く取りざたされています。

それは、上記の様な批判思考をやめられるという自由を皆さんが求めているからではないでしょうか?そして、そういう意味でも、多くの人の意識が高い状態に吐いて来ているという意味でもあると思います。

 

もし興味を持たれたなら、マインドフルネスに関しては、日本内外で、様々な提言がなされていますので、もし実体験したい場合はAmazonなどで書籍を検索したり、近隣でそのような講座が開かれていないか、調べてみる事をお薦めします。

 

マインドフルネスとは「気配りをしている状態」という意味です。

周りの人への気配り…という意味も勿論含みますが、ここでは、思考、感情、体験の全てをつぶさに意識する…意識上に上げる…という意味が一番正しい解釈になります。

 

前項の所と合流させるならば、

「自分を批判している自分に気がつく」という事が言えます。

 

判断を加えないという大きな目標を持っているやり方なので、

「批判している自分」すら「批判しない」事になります。

 

体験してみると分かりますが、これが一筋縄ではいきません。

それをどうにかしよう、と努力するならばそれも「現状への批判になり」

それはいけないと言われていたな、と思った時点で更に「批判の一部」に入り込んでしまいます。

どこかで見限りをつける必要が出来てきますが、

批判しないというのは「飲み込まれないで判断しないで」

なので、「ただ見ている自分がいる」

でとどめる事で段々静まっていきます。

 

まとめるならば、

マインドフルネスとは「批判している自分に気付いて、受動的にやめていく」

という姿勢です。

 

受動的に…と書きましたが、これは流れに身を任せてしまうという「サレンダー」の感覚に近いです。

 

創造的エネルギーへのアクセス〜うつからの脱却

 

自己批判している時は、自分の未来にも悲観している時です。

なぜならば、現在の駄目な自分という判断は、ひいては将来にも同じ事が連鎖する、という判断でもあるからです。

 

その時人は将来を楽観視出来ないので…つまり、将来を創造する、という大きなモチベーション=エネルギーの源泉が断たれている事を意味します。

 

もしも、自分の人生が自分のコントロール下に置かれていれば、きっともっとやる気と勇気が湧いてくる事でしょう。

 

創造的エネルギーとは、誰の心の中にもあります。

どんなに切羽詰まっていても、乗り越えられるという確信、つまり、将来を創って行ける、という気概一つ持てば乗り越える為の行動が出来ます。

 

建設的な対応が出来るという事ですが、それが正に創造的エネルギーです。

 

どんなに落ち込んでいたとしても、このエネルギーにアクセス出来れば寸座に自然に居住まいを正せます。

 

その迂回路として用意されているのが、「批判を続ける事で自分が自分のやる気を落とさない」という発想なのです。

 

1️⃣マインドフルネスを習慣化する(時間はかかるが、その後の人生の荒波に建設的に対応出来る能力が備わる)

2️⃣自分のお気に入りの場所を想像してみる(神社、海、山、森など)または、自分の住まいの環境を整えてしまう(大好きだと思えるインテリアで包む、または、出来る範囲でいいので、拭き掃除をしてみる)

3️⃣手軽に出来る事で、心を満たす事の出来る行動をしてみる

4️⃣サウナ、熱めのお風呂に入る

 

など、気分転換という発想だけではなく、自分を批判している黒いオーラから一旦置いておいて、抜け出してみる、という発想で出来る事から始める事が出来ます。

 

これから、人生を創って行くんだ!と決めたなら、それは実現します。

継続してその指針を持ち続ける事が大事ですが、

ポジティブシンキングな人は、どんな事があっても「それでも人生に向き合う」と姿勢の裏に、創造的エネルギーとのアクセスという資質があるのかもしれないと私は思っています。

 

濃密な時間を過ごして人生にポジティブになる

 

私が初めてマインドフルネスの本を購入したのが、

ジョン・カバットジン博士の本でした。

 

その本の中に、サイケデリックな装丁の中でこの様な記述がありました。

「初めて物事を見る様に、全ての物事を見つめてみる」

 

これは、とても強力な方法です。

 

マンネリ化という言葉にどんな雰囲気を持つでしょうか?

灰色の景色、だらけた中だるみの時間、うんざりする様な人間関係…etc

 

それを、思考から変えて行くという発想です。

 

「いつも通り」というのも判断です。

判断を切り離せたなら、そこには純粋な生身の存在があるだけです。

過去が◯◯だから、明日も◯◯

というのは、実は嘘だと言う事が、震災でも明らかになったのを目の当たりにした人の沢山います。

 

次の瞬間には、全く違った存在として、そこに物事がある。

極論そのように言っても、実は物理学的にもその事実が「真実」なのです。

 

新しい物ばかり、という視点で物事を見た時、どうしても感動が生まれてしまう様です。

 

それは「全く違った可能性が、目の前のものに宿っている」というもの。

 

マンネリ化という黒い可能性から比較したなら、それはとても神々しい物として、コントラストしてしまいます。

 

つまり、心の深い所からの、ポジティブシンキングがそこにはあります。

 

時間の流れが速いというのもそこに関連している様な気がします。

 

「足るを知る」と言いますが、当たり前にある当たり前の事を、当たり前ではないと思考するというのもこの一つでしょう。

ちなみに、「当たり前」も判断です。

 

判断の先には、「当たり前」が無い、つまり「奇跡という程ありがたい(有るという事がなかなか難しい、という意味での)」という視点が生まれるという事を考えると、人間というのはその中心に素晴らしい輝きを持っている、という事を感じます。

 

有り難い=感謝

感謝=「謝るを感じる」

 

そのように思った時、

「謙虚に生きる」事の素晴らしさが、本当の幸せと一緒くたになっているという事実を見逃せない様な気がします。

 

そして、「謙虚」とは「エゴに振り回されていない。という意味でもあるかもしれません。

 

総じて、こういった瞑想のもたらす効果というのは、心の深層にある輝きに蓋をしている黒いものを諦めて手放し、純粋な状態を導く「浄化」の作用により生まれるエネルギーの純化なのだと思います。

 

 

※昨年末、近くのダムに赴きました。

雪が積もっている中、ダムの展望台に歩を進めてみると、暮れの夕方という事もあり、人は全然いませんでした。

鳥が鳴く声以外は全くの無音。

吹雪の風が耳元を通り抜けて行く音だけが耳の奥に響きます。

すると、ちょろちょろという音が少しだけ聞こえてきました。

展望台の下には、川が流れていました。

何故か、雪景色の中にあるその流れが、奇跡の様に感じ、聞き入ってしまいました。

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人格類型論〜個性の輝きと、魂の成長

個性を知識として知る事でどんな利点があるか

「自分の限界」と聞くとどのような印象があるでしょうか?

私は、自由を奪われる様な思考が働く事が多いのですが、実は「自由」を手にする為にはどうしても避けては通れないものだという事を感じます。

 

例えば、魂が欲していない事…言い換えるならば心の深層が求めていない事を、どうしても人は求めてしまうものですが、本当は「それ」を求める事は自分の真実ではなかったのだ。という、自分の範囲の設定が、限界と言うものの一つの考え方でもあります。

また、本当は魂が求めている事を自分がどうしても避けてしまうとするならば、それはまた、乗り越えられる限界という見方が出来ます。

 

アクセルとブレーキを同時に踏んでも進まないばかりか、身体と心に負担がかかります。

ならば、限界のうえにある壁を取り除く事から始めないと、という考え方を採用するならば、よりよく生きられるのは間違いないでしょう。

 

その上で、自分の限界を受け入れ、そして乗り越える為に、自分のパターンを人類に共通の、分類された傾向として知ることは思う以上にパワフルなのです。

 

私が「人格類型論」=「個性の分類」を知った経緯

私が初めて個性の分類というものを知ったのは、通信制の大学に通っていた時の事でした。

そこでは、人格心理学という授業を受ける事が出来ます。私は心理職の資格取得を目指していたので、必須科目という事もあり、履修する事にしました。

 

教科書の冒頭は、人格というものがどのような階層で出来ているかという事を論じていました。

球体が何層かに分かれていて、核になる部分が「気質」というものです。「気質」と読むと、「職人気質」の様な、揺らがないその人の軸の様なイメージが湧いて来たり来なかったり、様々思い浮かべる事があると思います。気質とはその職人気質のイメージ通りで、「器質」という、その人の身体の構造。そしてそれに根ざした心の方向性など、先天的で変えようの無いものを表しています。

「乱暴で怒りっぽい」「人と交わる事を好まない」「独創的」などのその人の独特な性質も、その気質を核として、周りに積み重ねられて行った「性格」であり。そして、その球体の全体像こそが「人格=パーソナリティ」なのである。という説明がなされていました。

 

人生とは変化させる事が出来るものだと、正直に言えばそう思い込んでいた私にとって、絶対に変えられない自分の性質がある、という事を知るのはプラスの意味でもマイナスの意味でも衝撃でした。

 

ただし、この時点ではパーソナリティの分類を論じる事で何の意味があるのか?と実用性を信じていなかったため、この類型論については完全にスルーしました。

 

エニアグラム」との出会い

 

二年前の秋に運命的な出会いを果たしました。

 

宮城県北仙台でこのエニアグラムを深く学べる講座を開いている「凛樹さん」という方がいます。その方とは、ヒーリングのアチューンメントなどでご縁を頂き、懇意にさせていただいていたたため、何クールか終わっている一連の連続講座を受講する案内を頂き、満を持して講座に参加しました。

 

…ただ、結論から言うと、その段階ではすぐには答えが出ませんでした。

私は半年間もの間、間違って判別した仮想の自分のタイプ分けを深く学んでしまいました。

 

私がその当時判別していたのは、思考に偏りやすいカテゴリーの中でも、最も中核に存在している人たちのタイプで「忠実な人」というタイプでした。

 

しかし、全然しっくりこない。芯を突く様なメッセージが飛んで来ても、心に響かない。など、何かが違う事には気付いていましたが、元々思考に偏りやすい私は直観を信じる事が出来ず、そのまま時間を過ごす事になってしまいます。

 

忠実な人の隣に「調べる人というタイプがいて、それが私のタイプだと気付く事が出来た時、その腑に落ち方は半端ではありませんでした。

 

自分を外側からも内側からも力強く支えている様な、絶対的な支持と受容という感覚。

そこから、色々な自分の問題の内側にある課題が見えてきて、それは正に自分を受け止めた上で自分を変えて行くという大きな人生のミッションに参加するという安心感と興奮も伴っていました。

 

 

自分の個性の分類を知るツール

先ほど書いた、人格心理学の授業の中で学んだ人格類型論の中には、身体の骨格や筋肉の付き方からその人の性質を類推するという「クレッチマーの類型論」というものもありました。これは、筋肉質、やせ形、ぽっちゃり、という三つの体型で人格を類型するというものです。

これも東洋医学的な考え方から見るとあながち間違っている物とも言えないのですが、エビデンスに乏しいという理由で淘汰されてきた歴史が有るとの事でした。

 

また、その後前回書いたリハビリ期間中に学んだ「アサーション」というコミュニケーションの考え方の中でも、三つのタイプが論じられています。

これはコミュニケーションの在り方と、陥りやすい失敗を知る上ではとても有益な情報です。

 

統計学的な占いの多くもまた、人の性質をエネルギー的に見定めたり、類型論の一つでもあります。

グラッサー博士の「選択理論」の本では、「自由の欲求」「愛と所属の欲求」「力の欲求」「楽しみの欲求」「生存の欲求」のバランスがその人のパーソナリティの基盤を作っていて、これもまた変える事が出来ないものだというニュアンスで論じていました。

 

以前友達から借りた数秘術の本では、生まれた日にちの数字から、その人の性質を鑑みるという知識も載っていました。

 

 

まずは、自分を深く知る為に。自分を内省する手がかりをする為に、何か一つでも知識として仕入れてみてはいかがでしょうか?

 

※血液型類型論の新しい見解

血液型もよく当たると言われていますが、これもエビデンスに乏しいのが実情で、実はこれだけ実証されていない類型論がもてはやされているのは日本だけだという話も聞いた事があります。が、真偽の程は確かではありません。

しかし、人格の類型とは別の話なのですが、一つだけ面白い見解があったので紹介したいと思います。

そもそも、アフリカから世界に広がって行ったとされている人間という種の中で最初に生まれたのはO型だとされています。その頃、人々は狩猟の生活を主にしていて、肉食が多かったとの事です。そこから東に広がって行くと、そこでは放牧を行っていました。乳製品を主に摂っていたのですが、伝統的に乳製品は発酵食品と関係があるとの事です。ちなみにこの時生まれたのがB型ででした。日本人に多いA型は、一番最後に生まれた人々で、菜食を主とする人々で構成されていました。

そして、その時の食事の摂り方が、血液にも情報として乗っているという考え方でした。

化学の毒も恐ろしいですが、蛇の毒や毒草などの自然毒もやはり恐ろしい威力を持っています。

食べるという事は、栄養を手にするという事ですが、反面、食事に含まれる自然毒も身体に取り入れる事を意味します。

血液型の類型から、その自然毒の分解酵素の血液中の配合濃度が、その血液型で生きて暮らしていた人々の食事の在り方の影響を受けていて、現代の人々に引き継がれている…というものです。

例えばO型の人は「MEC(MEET,EGG,CHEESEの頭文字をとっている)食)に適していたり、B型の人は、「菌活」に適していたり、A型の人は「ビーガン」としてやっていくのに適していたり、AB型の人は、その二つを併せたら良い結果が得られる…と言う事が言えるという見解でした。

どこまで実証されているのかが分からないので、真に受けるかどうはその人の責任だとは思いますが、何となく知的好奇心をくすぐられたのは言うまでもありませんでした。

  

自分自身の個性を知る事は、人生における負けパターンを知る手がかりになる

 私の例を挙げるならば、(エニアグラムで)思考に偏りやすいタイプの一つで「調べる人」

ならば、そもそも人と交わる社交的な人になりにくい、という記述があります。それを認めると、まずはいきりたって何か自分の本質が求めない、別のものに、力んでフォローするという事がやめられました

 

しかし、人として生きているからには、完全に社会から断絶して生きていてもそこには真の喜びはありません。

そして、本来、人と繋がりたい思いがあるのに、どうしても避けてしまうのは、そこに何らかの恐れとしてのブレーキがあったからでした。

取り除いて、フランクに人と交流してみると、いろんな学びと、そこから自分の本当の問題を解決していく道が拓けて行き、心を解き放った(魂の輝きを解放できた)心地よさがありました。

(ちなみに、前回の記事の最後に書いた事は、この知識から得たものをお伝えしました。解決の方向の間違いの傾向という事が、自分の中でも釈然としたためです)

 

人生を作って行く上で、出来る事は沢山あります。

 

そして、その先にある個性の輝きは、周りを神々しい光で明るくまばゆく照らしてくれる事でしょう。

そんな自分になれるんだ!という予想を持った上で座学を実際の生活に活かして行くと、結果が出てきます。

 

個性を知るという事は、決して自分を深く掘り下げて、そして知的好奇心を満たす…という事だけで終わるのではなく、自分をもっと良い方向に持って行ける指針を知るという事なのだと思っています。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

マイ・ストーリー〜見えない世界への傾倒編〜3️

前回は、色々な見えない世界へのこだわりが生まれ始めた経緯を書き綴ってみました。

 

今回は、「見えないもの」を身体と目で体験した経験を書いて行こうと思います。

 

世界観を作る楽しみ

 

小学生を出始める辺りから、何故かサラリーマンになる事に抵抗がありました。

会社で仕事をしている自分…がどうしても受け入れられず、その頃に出会ったのが、藤子不二雄A先生の「まんが道」という作品のシリーズでした。

 

最初は、登場人物の設定を考えるのが私にとってはとても楽しい事なんだという事に気付くところから始まりました。まんがを書くまでには至らない事の方が多いのですが、登場人物同士の人間関係を作って行ったり、現実世界では起こりえない様な、ファンタジーの世界観を作って行く事にどハマりしました。

 

それは、藤子不二雄先生お二人が、まんが道の中で登場人物の設定からまずは始めて、まんがを作り始めているのを読んでいて知った事に端を発しました。

 

その他、ストーリーを作る事に楽しみを感じたり、世界観を設定して作り上げて行く、正にクリエイティブな事の入り口に居る事がどうにも居心地が良い事に気付くのでした。例えば、RPGのアドベンチャーブックと呼ばれているものを作ったり、小説を書いたりと…。この時点では、音楽には興味を示していなかった私ですが、事あるごとに音楽との縁が深まっている事に今となっては気付きます。

 

まんが家から、イラストレーターへの進路変更

 

サラリーマンにだけはなりたくない!

そう決めた私は、まんが家という不安定な仕事ではなく、イラストレーター、更に、調べて知る事になった、グラフィックデザイナーを目指す事にしました(それもサラリーマンのうちだとはなぜか気付きませんでした)。目標を漠然とさせたまま、中学二年生の時点で、大学は東京の美大にする事を決めました。

 

高校に入ってすぐ、次の年に新設される高校に「美術コース」が有る事を知り、思い切って父親に高校中退のお願いをしましたが、、、

猛反対され、泣く泣く諦める事にしました。

 

その高校が新設された翌年から、仙台市内の美大予備校に通い始めます。

体験教室に行くと、まずは椅子のデッサンをさせられました。

直観で感じた事は、「あ、これ、なんか違う」というものでしたが、その直観を信じずにそのまま突っ切りました。

すぐに入学を決意し、親に頼りながら通学を始めました。

 

直観で感じた事は如実に表れるもので、絵は遅々として上達しませんでした。

 

ストーリーを考えるのが好きなのであって、ゼロから1を作りだす様な創造的作業が好きだった訳ではなかったのです。

 

専攻したコースはグラフィックデザインコースでした。

 

ここから二年間に渡る苦しい日々が始まります。

 

オーラを感じる様になる

 

高校卒業も間近になるまで、ほぼ毎日アトリエに通います。

 

絵には人柄が出ます。

私は、どうも柔らかいぼんやりとしたものが絵ににじみ出る様になりました。

 

しかし、そこは個性がどうのという事を大切にするより、大学にいかにして受かるか、という事を推進する場所だったので、その一点については事あるごとに指摘される様になりました。

 

うまく描ける様になる為には、発想の転換が必要でしたが、批評会という一週間描き上げた作品をみんなの前で先生が論評するというミーティングが終わるとすぐにまた違う作品へ…と忙しく、反省してどうすれば良いかという事を吟味する暇が無くなって行きました。

だんだんとエネルギー不足になります。

また、狭いアトリエで人が沢山いる空気は、どうにも私には苦しいものでした。

よく「パーソナルスペース」と言いますが、その現象の裏には、心理的な空間を「感じる」という知覚の層が身体に有るという事だろうと今となっては思います。

 

血眼になったり、喜んだり、攻撃的になったり…という人々の中で、人が発するオーラの圧力を感じざるを得ない状況になっていました。

 

また、水彩コースに進路変更をしたあと、卒業を間近にして、⬇️の様な絵の描き方、モチーフの見方を学びました。

 

大抵、水彩というと、大学の日本画コースを目指す人が勉強する分野です。

水彩は、よく小学校などで使われる様な「不透明水彩」ではなく、「透明水彩」を使います。

絵の具の膜ができると、その上から更に塗り重ね、絵の具が透明なので、下の色が混ざって透けて見えます。

 

その特性を利用して、乾いては塗り重ね、また違う箇所へ、という塗り方をしますが、

 

一つの物体が作る影には、周囲の色々なものに反射した光が混ざって見えているんだよ、

と伝えられました。

 

例えば、グレー一色では表現できないので、時にはピンクが入ったり、ブルーが入ったりと、それを見つめる目をひたすら鍛えました。

 

今、虚空を見つめていると、物や人の周りにめらめらと燃え立つ様な陽炎の様な物が見えたり、時には色に変わったりとするのを感じる事があるのですが、

その下地になったのは、こういった、普通の日常生活では感知し得ない様な色の世界を感知する様に鍛えた事も一つあるのかもしれない、と思考したりします。

 

調子を崩し、アート作家の夢を諦めるまで

 

日々、ペットボトルの紅茶と、栄養ブロックを食べる毎日…

今だったら絶対しませんが…

 

食事の面からも、規則的な生活からも逸脱し、

人々のオーラに影響を受け…とやっているうちに、

ある日ぷつんと糸が切れました。

 

東京芸大という難関を無謀にも挑戦しようとして家を出ましたが、

突如不安に襲われ、仙台駅まで行ってとんぼ返りしました。

 

家に帰ると、親の反応は思いのほかシビアでした。

怒られるという事ではなく、悲しみを露呈され、

どうにも身の置き場の無い思いに駆られました。

人の悲しみを目の当たりにして、自分にその解決に出来る事がありながら、エネルギー不足で出来ないというやるせなさのため、しばらく鬱状態に入り込むきっかけになりました。

 

焦燥感と、絶望感と、悲しみと…

 

もはや自分のオーラを保つ事すら出来なくなっています。

いや、オーラはあったのでしょうが、限りなく灰色だったのだろうと思ったりもします。

 

そして、数ヶ月に渡り、家に引きこもる事になりました。

 

体調を崩し、数年間リハビリ生活を送る事になりました

 

引きこもっていましたが、生活を改めようとは発想すら思い浮かびませんでした。

 

最初は体力的にもタフで、夜勤の仕事を始めたあと、出勤前に縄跳びを数十回してトレーニングしたあと、自転車で遠い所まで通勤、とやっても、特に問題のなかった普通の若者の状態から、段々とエネルギーが切れて行く様になり、仕事を辞め、心理カウンセリングを受けたり、気ままな生活へとシフトしていきます。

 

しかし、食生活は相変わらずずさんなもので、1日一色、大盛りの袋麵を作って、

牛乳一本と白米にゆかりをかけて食べる、という事を1年半ほど過ごした後、体調を崩し、入院する事になりました。

 

病気の影響は凄まじく、しばらく体調が上がらなかったため、リハビリ期間を必要としました。

 

リハビリを終える前に、女性と二人暮らしをしたり、通信制の大学で心理学を学んだり…としながら、しばらく経ち、いつの間にか高校卒業から十年が経っていました。

 

そんな灰色の様な生活の中で、唯一気になり始めてときめいたのが、

オーラソーマ

と「レイキ」でした。

 

オーラソーマは直観で自分にその時マッチした色合いのボトルを選び、そのボトルのメッセージから今の自分、過去の自分、人生、と、メッセージを受け取り、教えてもらうというセッションです。

 

私は元々「癒しの仕事」をする運命だと告げられました。

その他、ズバズバと私の特徴が当てられて行きます。

こんな凄い事がおこるんだ!とカルチャーショックでした。

 

レイキは、当時書いていたブログで、「4」という数字が天使の数字だと伝えてくれていた方が、アチューンメントというレイキヒーリングの伝授をしていた事から知ったツールでした。

 

但し、その時点では病気の人は伝授は受けられない、という事だったため、その時点では諦めますが、その後社会復帰を果たした後、再び違う方に伝授をしてもらう事になりました。

 

地に足がついていないというのは、着実な地歩が歩めていない人にとっては当然の結果ではあります。

その理由を根本から解決…つまり、現実の目の前の事実に適応する様な道を選ばない限り、いつまで経っても、地に足をつけて、目に見えない世界へ分離するのを辞める事が出来ない事を意味します。

 

私の前半の人生から伝えられている事は、

「もしも引け目や負い目のある事があるならば、そこにフォーカスして少しでも成長しなければ、どんなに違う事に逃げても本当の解決にはならないよ」

というものでした。

 

見えない世界に偏重する人にもなにがしかの理由があります。

 

火の無い所に煙は立たない

 

は正に宇宙の真理なのではないでしょうか。

 

ある人が、特性を活かして環境に定着する。

その為に、ある人がその凹を凸で埋める働きが出来る。

そこに感謝が生まれ、それがその人同士の仕事になる。

 

そんな世界が私の理想とする世界です。

 

今、世界は経済・産業主義から疲弊しています。

それは、土壌汚染、水質汚染などの地球自体の疲弊でもあり、

もはや頭打ちになりつつある同じ在り方の中で、人類も悲観的な見方による疲弊を起こしている様な気がします。

 

このブログは、そんな世界になるにはどうしたらいいのか、を考察し、

読んでくださる方が自らの個性をいかんなく発揮出来るお手伝いをさせていただきたいと考えて書き綴って行きます。

 

 

 

 

 

 

 

マイ・ストーリー〜見えない世界への傾倒編〜②

前回はおまじないの本にはまってしまったエピソードで終わりました。

 

良くない方法は別として、いい方法が沢山載っていたので、様々試しました。

 

ただ、全然効果を感じる事ができず、実践はそこで打ち止めになります。

(もしも効果を感じていたなら、もっと違う方向に行ってしまっていた様な気がします。ブレーキをかけてくれたんだ、、、と解釈しています。)

 

ここで、ただ偏重はしていてもやはり凡人には変わりないという事をまざまざと見せつけられたのは言うまでも有りません。

 

その後、何年間かは、面白い(と思っていた)少年として過ごします。

 

ただし、その事にはどんどん気付かされて行く事になります。もっと根っから面白い少年が沢山いますし、自分のトーク能力…というか、元々話しをしたくないんだ、という事を潜在的に気付く事になりました。

 

ここでも無力感を感じますが、後でも述べる様に、努力する方向を間違う傾向があるみたいです。

 

積み上げて、実力を高めて行く、という事を実践し始めるまで、このループから抜け出せなくなっていました。

 

 

再び見えない力に興味を持ち始めたのは、小学五年生ぐらいの事でした。

 

孔雀王」という漫画が有ります。

その実写版が映画になりました。

金曜ロードショーだったと思いますが、あの哀愁のオープニングが始まると、ワクワクしてTVの前で構える様になっていました。

そうやって期待して見た訳ではなかった映画だったのですが、そのサイキックな世界観に強く引き込まれました。

 

あらすじは、密教の僧として、力を操る主人公が、世界の危機を救う為に悪と戦い勝利するというものです。

 

「九字切り」という密教の作法が出てきました。

「あ!おまじないの本に書いてあった物だ!」

と思い、その後すぐに九つの印(手を組み合わせて作る形(よく、カエルの顔を手で作ったりしますが、あれに似ています))と、九字切りという作法を覚えました。

 

そしてほどなくして「3×3EYES」という漫画と出逢いました。

 

主人公と共に過ごすヒロインは「パールバティー」という露骨な名前。(インドの神話に出てくる神様の名前です)

どこからか調べてきてその事を知ってからは、どんどんその世界観にもはまっていきました。集中力は人並みはずれたものがあります。

 

主人公が使いとして使っているモンスターの頭には例外なく「梵字」(文字自体が神様などを表す神聖な文字の事)が書かれていたり、興味によだれを垂らす要素が沢山ありました。

 

友達と、「ごっこ遊び」をしたり、まるで見えない力が宿ったかの様な騒ぎです。

 

「力」というものを希求してか、どういう訳か武術との繋がりもありました。

少林寺や空手を何年間か実践していました。

 

見えない世界の力もまた、そんな「威力」だったのかもしれません。

 

ただ、もしも実生活で自己効力感を味わうならば、本当に必要としている力を蔑ろにする訳にはいかないという事実にも気付く事になりました。

 

梵字を学んだり、神話にはまったりする前に、出来る事があるという事に気付くのは、それから何年も経った後でした。

 

しかし、世の中に存在する事はすべからく何かのシステムに載っているという事を実感しますが、こういった知識もまた、後々色々なところで繋がってくるもので、その度に「アハ体験」の様な感覚を味わいました。

 

瞑想の本にも出会いました。

中ニの春、瞑想、と言うキーワードだけ携えてノープランで公民館の図書館に行くと、偶然瞑想ヨガの本を見つけました。

何故か受付を通すことをしなかった私は本をそのまま持ってきてしまいました。

 

本の内容は「自律訓練法」で瞑想状態を導く、更にその為にヨガのポーズを使ってみる、というものでしたが、

ここでも効果が感じられないばかりか、瞑想に対するトラウマだけが生まれてしまいました。

正しいやり方を順を追ってやらなかった為でした。

 

ちなみに、その本を書かれたいのは、今や有名な綿本彰先生のお父様でした。

 

それからほどなくして心理的な調子を崩しました。

薬を中学生から飲み始めると言う事になり…。

ヨガが効果が有るだろうと思い、最寄駅の駅ビルよカルチャーセンターに通います。

そこでは、インドの聖人の写真に向かって拝み、彼らが書いた自己啓発書を勧められる、と言う、今のような意識の高い世の中ではない時代に、あからさまに怪しい団体がレッスンを行なっていました。

 

ただし、ここでも効果が出ません。

 

その後ヨガの効果を感じるまで、三回程始めてはやめ、を繰り返しました。

 

効果が出なかったのも、何か意味があるのだろうと今となっては思います。

 

 

 

そんな小中学生を経て、その後取り組み始めたのは「アート」の世界でした。

 

次回は、アートの世界に傾倒した高校生時代に気付いた事を書いて行こうと思います。