大切な人が心配な時、どう考えれば良いのか?

大切な人が病気にかかっていたり、離れて暮らす親が独居で高齢であったり。

大切な人が心配な時どのように考えると良いのか、今回は考えて行きたいと思います。

 

きっと、読み終わった後に、胸を撫で下ろす事が出来る様なヒントが見つかると思います。

 

守られている事を信頼する

私が今誰かを心配しているとすると、心配な思いで苦しんでいるのは私の心です。

私の心が安心という方向に舵を取れば、少なくとも心の中は平安な状態になっていきます。

何よりも、責任感の強いあなたを、一旦安心させてあげる事ができます。

 

1.でも、運命と神様に守られている。

運命の荒波がやってくるのを阻止するのはとても難しい事です。

今、大切な人が心配な状況になった事も、阻止する事が出来たかも知れないとは言え、実際にその様な状況が目の前で展開している事実が既にあります。

 

ここで、役立ちそうな言葉を紹介します。

アメリカの神学者、ラインホルド・ニーバーの祈りの言葉の一部分の抜粋です。

 

ニーバーの祈り

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

Wikipediaより 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A))

 

変えられない事もある。という事は、変えられないほど巨大な力に、その大切な人達が包み込まれている。という事でもあります。

その大きな力を人は神様、とか運命とか名前を変えて呼んでいます。

大きな力を信じてみましょう。次項でお伝えしますが、どの経験からも深いレベルでは大きな学びがあります。

本人にその経験から学びが与えられますように。と祈る事で、心の中がすっきりしてきます。

 

2.魂が望んでいる事をしている。

その人が「不幸」だと思うのは、見ている私たちの解釈でしか無いのかもしれません。

確かに目の前で苦しんでいる姿を見ると、心優しい人であればあるほど、「その苦しみを解いてあげたい」と、苦しみをとても悪いものとして捉える事になるはずです。

 

でも、その思いとは裏腹に、本人の苦しみが変わらなかったり、増すばかりだとしたなら…それは、先ほども書きましたが、「巨大な力」として、個人のレベルでの意識が作用しているのかもしれません。

 

誰しも、どうしても譲れない事というのは持っているはずです。

魂のレベルで、どうしても譲れない。と思っている事があるとするならば、それは如実に現実化して行き、他の誰かが干渉しようとしても出来ないはずです。

 

だからこそ、その過程の中で、本人が最も深層で求めている事を、信頼してあげるのです。

 

とても強い感動を伴った、揺るぎのない・深い学びが本人にもたらされると信じて、その学びを祝福してみましょう。

少なくとも、見ている私たちの心の中にある淀みが、静かに晴れて行くのを感じる事ができるはずです。

 

3.一緒に居てくれている人が、本人の心の中にはいる

高齢者の場合、心を開かない方向で心の状態が固着してしまう場合もあります。

そんな時、心を開いて生きて欲しい。と願う私たちの心が、本人の状態を最も孤独だと、私たちを思わせてしまうかもしれません。

 

大切な人であるからこそ、もっと心を開かせて、喜びを味あわせてあげたい。

苦しみを解いてあげたい。

 

でも、もしかしたら本人の心の中ではこんな事が起きているかもしれません。

 

「ああ、あの人に会いたいな。もう会えないあの人に。恋しい。懐かしいな。」

 

感情が平板化する。と言うのは、必ずしも感情が完全に無くなってしまった事を意味しているのではなく、感じると危険な程センセーショナルな感情から心を守る為にフタをしているだけなのかもしれません。

 

つまり、心の深いところではまだ温かい思いは残っているはず。

 

思い出の中では、時間を共にしている。そんな人がいるかもしれません。

 

また、沢山会うことが出来ないけど、独居で暮らしているのが心配。と思われている読者の方にも次の考え方は役立つかもしれません。

 

「脳は「イメージ」と「現実」を区別出来ない。」という性質があります。

 

こんな話を聞いた事がある方はいらっしゃらないでしょうか?

 

四肢のうちいずれかを何らかの事情で切断した後、四肢のかゆみや痛みの「幻覚」が表れる事がある。

 

本当はもう足は無いのに「足がかゆい」という「現象」が起こる事があります。

その時、それは客観的には「幻覚」なのですが、主観的には「事実」です。

 

この事が示しているのは、「思い」とは、既にその本人にとって絶対的な事実…つまり「現実界で起きている事実の現象」である。という事です。

 

先ほど書いた事を二つ、まとめて列記してみます。

・心を閉ざしていたとしても、孤独な状態だとしても、心の中では懐かしい思い出や、その中にいる登場人物と共にいる可能性がある。

・「思い」は心の中で確実に現実化している。

 

以上の事から、本人の主観の中では、常に一緒にいたいと思う相手が常にそばで見守っている。と考える事も出来ますね。

 

前項で紹介した祈りの言葉についての説明からも、

本人の心が固く決めている事は「変えられない事」に分類出来ます。

 

しかし、変えられない程固い決意というのは「思いの力=現実化の力」がとても強い。と言う事を意味します。

そこにはどうしても大切にしたいものが確固たる形で存在している。と考える事も出来るでしょう。

 

つまり、大切にしたい何か。そして心に密かに抱えている誰かと、常に共にある。という事です。

 

もしも寂しさを感じているならば、その寂しさを埋める様な思いを使わなければ心はつぶれてしまうはずなので、何らかの対応をして、心自身が本人を守ってくれているはずです。

 

一人でいたとしても、必ず何かに守られています。それを信頼する。という事は、思いを発したり持ち続けている本人の生命力を信頼する。という事でもあります。

 

信頼し、そして本人の思いを祝福・祈る。という事で、少なくとも私たちの「思い」の中を清明なエネルギーでいっぱいにする事が出来ます。

 

魂の表現を賛美する

…こう書くと、何かの宗教か?と思われる方もいるかもしれません。

これは広義の意味での「セルフコンパッション」である。と捉えてもらうといいでしょう。

 

セルフコンパッションとは、自分自身が自分へ送る、最大限の赦しの事です。

 

先ほども書きました様に、私たちの思いこそが、私たちの現実であると言う事が出来ます。

 

思いの全てが赦しでいっぱいになったら…そう思った時、悪い気がする人がいるでしょうか?

 

前述の大見出しの説明を引き合いに出すと、全ては心のとても深いところにある「意思」の決定である。と言えます。

 

だからこそ、心配な相手の最大の決定も、小さな決断も、全て「魂の表現である。」として、その輝きを正に「賛美」する意識を持つ事で、心が救われる事もあるかもしれません。

 

そして、何より、自分自身の魂に対しても、その全ての選択と決定を赦し、祝福する事は何よりもパワフルな自分への応援になります。何よりも大きな力に加担するような心の表れがそこにはあるからです。

 

すると、地球を外から見たときに感じる様な「日常の事なんて、ちっぽけだな」という思いが、普段から表れる様になっていきます。

 

それにより、私たちの大切な人を見る目も、より軽やかになるし、その姿勢は如実に相手にも伝わり、とてもいい好循環が産まれて行くはずです。

 

 

 

何よりも、ホッと胸を撫で下ろす様な感覚が持てれば、とても楽ですよね。

それは、頭で考えてどうにかする。という現代の人類のやり方とは別のところにある、感覚的なものであり、頭で導きだせるものではないのかもしれません。

 

予測不能な事…つまり、頭で計算出来ない事は、先ほどのニーバーの祈りの「変えられない事」に属する事、と諦める事で、前に進む勇気も出てきます。

 

心配をする。という思いは、相手にも非言語のコミュニケーションで伝わっているかもしれません。その時、心配するという事は、ある意味相手にとって重荷になります。

 

自分だったら…どうでしょうか?

 

大切な人が、自分を憐れんでいるばかりか、とても心配している。もしくは私の事を信頼してくれていない。

そう感じた時、自分も自分に対し心配になるし、何より申し訳なくなるかもしれません。

 

心配とは「呪い」そのものなのかもしれません。

 

自分を赦し、相手の人生を使った表現の全てを赦す。

 

それが出来た時、唯一無二の「私自身の思い」は軽やかにそこにいる事が出来る様になります。

 

 

 

 

多様性を受け入れる為のエッセンス

人間の性質には多様性があり、だからこそ面白いもの。

 

そう考えられたなら、自分と他人が違うと言うことに、心を乱されずに済みそうです。

 

他人を見ていて、自分との違いがありすぎる時、または自分が内側で大切にしているものを壊されそうな時、怒りを感じることは無いでしょうか?

 

その時、相手をどうしても変えたくなりませんか?

 

自分と違うものを、どうしても自分の世界に同一化したい。つまり、自分にとって安全な範囲のものに変換したい、治めたい。そう思うのが人間の性質なのかもしれません。

 

実際、人間の身体には「ホメオスタシス」と言って、自分にとって慣れ親しんだ状態を維持したくなる性質があると言われています。

 

身体の持つ性質は、そのまま心にも適用されます。

 

例えば、身体の欲望(例:性欲、食欲)は、心の欲望と繋がっていて、心が満たされているなら、依存症になるほど渇望したりはしません。

 

身体と心の繋がり。

これを、性格にも当てはめてみると、見えてくる事があります。

 

身体と言う、物理的な存在の性質が、心の性質と繋がっている。と言う仮定が出来ます。

 

クレッチマーの人格類型論を始めとして、脳内や体内の性質が、性格を作っている。と言う考え方があります。

 

心と言うと、頑張れば変われそうな気がしてきますが、遺伝子の組成による物理的な「体質」として性格を見てみると、そう簡単には変わらない生まれ持った性質があると言う事も見えてきますよね。

 

「他人と過去は変えられない」

 

と言う言葉を見かけたことがある方もおられるのではないでしょうか。

 

過去と言う言葉を広く解釈してみると、

生まれた時に決まってしまった自身の性質。と言う考え方も出来ます。

そして、自分ですら変えにくい自身の性質を、他人が変えることは難しく、変えたいと思っても変えられないのに、他人から変えろと言われても、難しい。そして、変えたくないと本音で思っているのに、変えろと言われたら…。

 

と想定をしていくと、自分以外の誰かの、生まれ持った性質を変えようとするのは無理だと言えるでしょう。

 

他人を変えることを諦めると、相手の領域を踏み荒す事が無くなり、トラブルも減っていきます。

 

そして、他人が大切にしている考え方(つまり、その人の領域の中にあるもの)や生き方を否定しない習慣を持つ事で、自分以外の誰かの多様性を、肯定する事が出来ます。

 

自分と他人が、離れていても(違っていても)大丈夫。

 

そう思う事が出来ると、自分の領域を自分で侵犯する事も減っていきます。

 

多様性を認めると言う事は、

他人の領域に入り込みたくなる、心のエラーを減らす事。

他人が大切にしている価値観を否定するのをやめる事。

他人が大切している価値観を肯定する事。

その延長線上で、自分の大切な価値観を肯定する事。

 

これらの約束事を、決まりではなく、落ち着いて認め、守る事によって

多様性を認める事が出来る様になる可能性があります。

 

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誰かを羨ましいと思った時に考えてみるべき事。

こんばんは。

 

このブログを見つけて頂きありがとうございます。

 

SNSなどを見ていると、

「あー、この人(達)、羨ましいー。」

と思うことが沢山あります。

 

私の場合は、なんだかその人たちの「輝き」が羨ましく感じます。

皆さんはその人たち(羨ましいと思う対象)を見てどのような思いで、羨望の眼差しを向けますか?

 

認知のタネ

よく言われる事ですが、自分の眼に映ると言う事は、既に脳の認知にまつわるシステムが働いているということ。つまり、自分の中に認知のタネがあるからこそ、誰かを見たときに価値判断と言う認知が生まれます。

 

また、どんなに侮蔑した価値判断を下したとしても、認知自体は自分の外側で起こっているのではなく、あくまで内面で起きています。(脳は、身体の外の空間にあるのではなく、あくまで自分の体内にある。と言う事からも導き出せる答えです。)

 

タネから認知が生まれる

では、そのタネとはどこから生まれたのでしょうか?

 

判断と言うのは、今の時間軸よりも後ろにある時間軸で外から内側へインストールされた、と考える事は自然な事ですね。

 

例えば、箸を使わずにモリモリと手で食事をしていると、「恥」と言う評価が下されます。それは幼い頃に起こるでしょうか。

 

特に、規律を重んじる事が得意な人が親の立場になった場合、その恥の評価はより甚だしいものになり、より恐怖に根ざした回避の行動が当人の身体と心に馴染んでいくことになります。(元々、大人になるにつれて規律が大切だと自ら思う様な根本的な性質を持った人なら、進んで箸を持って食べることをインストールしていく事でしょう。)

 

そうすると、自分の内面へのその規制や、それに根ざしたジャッジは、外側の人にも向くことになります。

 

…よく、下らないジョークを言うと、

「寒い!」

と言う言い方をする人がいますが、

これは、自らがそんな恥ずかしい、下らないギャグを言うような人間にはならない、と思っているのに、目の前で見せられて、心と身体が拒否反応を起こす。

つまり、下らない人にはならないで!と下らない自分を内面ですらジャッジし、除外するか抑圧しているからこそ、相手の中にそれを見たときにジャッジが起こり、除外する為の言葉を吐かなくてはならなくなる。と言うものだと、私が自分を観察していたときに思いました。

 

このくらい、自動的で無意識なジャッジが、元を辿ればいつの頃か感じた外からのジャッジに根ざして内在化され、その後外に向くようになっています。

 

まるで、外⇨内

           ⇨内⇨外

 

と循環する、ループするシステムの様ですね。

 

(仏教で言う、憎しみのループとはまさにこのことではないでしょうか。)

 

羨ましいのは、戻るべき理想の自分がいるから

元に戻りますが、

以上を引き合いにして、単純な方程式の様に見てみると、

誰かを見て

「輝き!」

と目に映ったと言う事は、自分の中にもその様な輝いた、肯定的な評価を下せる様な自分がいる(過去と言う時間軸での体験(と認知しているイメージ)の中で、より良い評価を受けた自分と言う「主体」のイメージが自分の中心に絡みついて存在している。)と言う事が出来ます。

 

つまり、羨ましいと思うと言う事は、過去、もしくは過去の再現としての未来の時間軸に存在する、自分の姿・像に近づこうとする働きだと言う事が出来ます。

 

自分の中にそんな自分がいるなんて、なんだか素敵ですよね。

 

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過去・未来は、存在していない?

ここで、過去と未来について、考えている事があるので、お伝えします。

 

よく「観測効果」と言う言葉をブログなどで読む事があります。

(量子論引き寄せの法則を絡めて、情報を発信している人のブログでよく見ます。)

「視る」と言う事が起きるときに初めて、視た先にある対象は生まれる。視ると素粒子が集まってくる。と言う事です。

 

これは、現実の世界ではなかなか確認しづらい事実だな、と私は実感しています。

 

…ある時こんなことに気づきました。

 

1.神話の世界が宇宙の真実だと思っていた時には、人類は神話の世界を宇宙の礎としていた。

そして、時間が経ち、たまたま生まれた地球は丸いと言う概念が流布したのち、宇宙に行った人は地球は丸いと伝え、事実となった。

つまり、人類の多くが考え、実感し、事実だと思った事が、現実として反映された…観念やそれに対する多数の人からの信頼によって、現実は創られているのではないか?

 

2.私が「思う」その外に、本当に「現実と呼ばれる物質世界が存在している」と言うことを、私の観念の中で証明する事は出来ない。何故なら、私が感じ、事実として体験しているのは、私が体験している「これ」だけだからだ。

 

その時に気づいた事が先行して、私は世界を「観測」しているので、自分の内面で起きている事は実に自分しか責任が取れない。もしくは、実在させる事は出来ない。と言う世界観で私は世界を視ています。

 

その時、視ていると言う行動は、外の誰からも影響を受けておらず(影響を受けていると言う判断をしているのも自分だけです。)、無意識レベルの自動的な反応で認知を繰り返している。その様に、これまた「視て」います。

 

過去、未来とは、現実には存在していません。

物理世界には、と言うべきでしょうか(ニュートン力学)。

 

何故なら過去を変えたい!と思って成功した人がいるでしょうか?

 

また、未来の危機に今すぐ行って、対処したい!

と思っても、グルグル考えているのはあくまで頭の中でだけです。

 

未来も過去も現実には存在しない。

だからこそ、直にアプローチする事が出来ないのです。

 

観念の中で存在している、実体のないもの。それが過去と未来です。

 

その時、視ている人が「想定」している過去と未来を「認知している」のですが、

実存するものを視たからこそ、その認知が生まれる。と言う当たり前の法則が刷り込まれているから、

認知している。それは実存している。と言う事だろう、と計算して、

過去と未来はたしかにあるじゃないか!

と「思っているだけ」なのです。

 

つまり、心と

身体つまり現実に起きている事、

それらの中で起きているのは、あくまで「今」と言う時間軸の中でだけです。

 

(今起きていることを、過去を理由に正当化している場合もあるようです。)

 

信頼出来るのは、感じているこの感覚のみ

そうすると、何が本当に起きているの?また、信頼に足る現象なんてあるの?と思う人がいるかもしれませんが、そつやって、世界に不信感を持つと言う事も認知の一つなのです。

 

ただ今、自分が感じ、考えたこと、それだけが、直に触れ、体験し、

存在している、と証明できる事なんですね。

 

羨ましいと言う思いに振り回されない為に

また、元に戻ります。

羨ましい、と思った。

その時、

どこの誰かも分からない。

心の中でどんな葛藤を抱えているかもわからない。

そんな人に共感するだけ無駄だし、その思考と感情のエネルギーを自分の人生の為にに注いだ方がいい。

 

そう言っている人がいました。

 

羨ましいと思う。と言う事は、

「未来の時間軸に置いた輝きの自分像に近づきたい!けど、何もできない。具体的に行動も移せないし、行動しても空振るだけ。自分には無理」

と思っている。(としましょう。)

 

そのモチベーションはなんでしょうか?

 

今ここに確かに存在している自分像に不満があるのかもしれません。

 

しかし、不満と言う認知もまた、自分が作り出しています。

 

不満を感じやすい脳内の回路があれば、どんなに目標を達成しても、一息ついて、今確かに存在している自分に対して、またしても不満を感じるはずです。

 

…もし、世界を視ている自分の認知のタネが、

「私、なんて幸せなんだろう!全部揃ってるし、前向きに未来を見て、行動してる!」

と言うものならば、

すなわち、世界観の前提が、輝いた自分ありきであるとしたら、もうそこで全てが完結します。

 

…それでも魂は躍進を続ける…

よく言う「魂」と言うレベルの意識は、常に変化を求めているので、意識のレベルで立ち止まっても、自動的に前に向かって進んでいるので、死なない限り発展をやめる事はあり得ません。

 

(ちなみに、ある悟りを開いたひとが、もう今生で果たすべき課題はもう無い…つまり、発展する事はもう無い。ときづいたとき、◯月◯日に、私死ぬ。予言をして、その日に亡くなった。と言う逸話があります。)

 

まとめ

羨ましい!と誰かを思ったという事は、その姿に戻るべき自分がいる。

⇨内面には、既に輝いた自分がいるので、認知と現実のギャップを前向きに埋める事が出来る。

 

羨ましい!設定の自分を書き換えられる。

 

以上が、今回考えた事でした。

 

また、このブログに足を運んで頂けたら最高に嬉しいです。

 

読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

SNS疲れに物申す。

こんにちは。このブログにたどり着いて頂きありがとうございます。

 

SNS疲れ」と言う言葉を目にする事があります。

一つの単語として定着してますね。

 

私もSNS疲れに陥り、SNSと言うSNSの全てのアカウントを退会した事があります。

 

ついこの間、知り合いの人気ブロガーがこんな事を書いていました。

 

「自分にとっての『普通』を保つと気分がいい」

 

SNSで、輝いている自分を過度に演出すると、無理をし続けることになり、自然で普通な自分からどんどんかけ離れて行くのかもしれません。

 

それは疲れるだろう。と。

 

 

 

今日、あるスピリチュアルアートの作家さんの個展に行ってきて、帰り道バスに乗っていて気づいた事がありました。

 

スマホ依存の心理

改めて、スマホに依存している人が多い。と言う事です。

 

SNSもそうなのですが、デジタルに依存する事で、何かからしきりに逃げている様な印象があります。

 

そこで考えてみたのが、こんな内容の事でした。

 

①世の中は、老若男女問わず、強いストレスを人に強いる傾向がある。と言う事実の仮定。

②そのストレスに人は常に追いかけられている。と言う事実の仮定。

 

追われているから、前に進んでいる

何かに意識を使う、と言うのは、前に向かってエネルギーを放っていると言う事だとイメージしてみます。

 

前に向かうエネルギーは、単体では存在し得ません。

その時、後ろから押しているエネルギーがある。と考えることが出来ます。

 

そこで、「後ろから押しているエネルギー」とはなんなのだろうか?と。

 

人それぞれ、そこに存在するまでにたどってきた道すがらのエピソードは違うはずですが、それぞれのエピソードに共通したエッセンスとは、なんなのだろうか?と考えてみます。

 

心の深層にある、没頭する事へのモチベーションとは?

以前「エニアグラム」と言う人格類型論の様な学問を学んでいた事があります。

 

その中で、人の心理の根底にあるモチベーションは、タイプ分けした場合三つある。と教わりました。

 

その三つとは、

 

「不安」「怒り」「恥」である。

と言う事でした。

 

「無意識に◯◯をしていた」と言う表現を使いますが、「無意識にしていた事」にも、こころの深いレベルでは動機があります。

 

この記事を読まれているあなたは、何かに没頭している時に、どんなモチベーションを持っていると考えたり、感じたりする事がありますか?

 

当たり前のことになっていることほど、「無意識に」なっていることなので、

意識の上にのぼらせる事が難しいかもしれません。

つまり、自分ではよくわからないと言う事もあるかもしれません。

 

しかし、よくよく見つめてみたり、考えて答えを出してみると、色んな答えが浮かび上がってきます。

 

さて、読者の方へ、皆さんの内面への問いかけをしてみましたが、

ここからは私の見解について言い及んでみようと思います。

 

時間軸の設定により、人は時間に追いかけられる

私が考えるのは、

みんなを追いかけてきているのは「時間」なのではないか、と言う事です。

 

何かをしなければいけない。

何かの結果を出さなければいけない。

何かを達成しなければいけない。

 

それらの意図は、全て、「時間軸の設定」がなかった場合、そこまで強迫的にならなくても済む様な質のものなのかもしれない。と考える事も出来ます。

 

どんなモチベーション、意図があったとしても、それらを表現し、形にすると言う事は、現時点において、未来と言う時間軸においてのみ、可能な事です。

 

その様に設定した時、「今」と言う空間は、それぞれ「空っぽ」なので、その空間を満たさないといけない。

未来は、満たされている。だから、未来に向かおう。

 

今と言う時間が空虚だからこそ、

過去と言う時間がマイナスに見えるからこそ、過去に追われ、今をスキップしようとするのかもしれない。

 

その様に誰かの心を想定する事が出来ます。

 

世界の常識を引きの視点で見てみる

では、時間に追われている自分を、救うにはどうすればいいのでしょうか。

 

そう考えていてすぐに思いついたのが、

 

「この世界の全ては張りぼてだ」

と見てみる。と言う事です。

 

不安を解消したいのか、

外にエネルギーを発する事で力を感じたいのか、

自己イメージを保つことにどこまでも尽力したいのか、

 

モチベーションは人それぞれでしょう。

 

その上で、「今」から見て次の時間にあるのは、それぞれのモチベーションをうまく果たした自分です。

 

しかし、もし古代の大自然の中に住む人が今の世界を見たら、

 

そして、もっと極端な例を挙げれば、遠い宇宙の果ての人間がこの地球に来て、全てを観察したとしたら、

 

と考えた時、ほぼ全てが意味のない存在の様に見えるかもしれません。

 

「色が付いている事が最も意味がある」のに、その全てが「色を失ってる」と表現するとわかりやすいかもしれません。

 

現実世界は、「全ての人による、全ての物事への共通認識と、その認識への信頼によって」成り立っています。

 

それを、疑ってみると言う事。

そして、本当は何の意味もない。思ってみる事。

それによって、その全てから、一旦は、自らの内面の中では自由になる事が出来ます。

 

つまり、世界は壮大な張りぼてだ!と見てみた。などと言う感じです。

 

実現したところで、虚しい。

と言う思いを、もっとポジティブにした感じと言う事も出来ます。

(ネガティブでも問題はありません。)

 

時間と言うものを客観的に見てみる

諦める=明らかにみる。

と言う事だと何度か目にしたり耳にした事があります。

 

保身する事を諦めるのは

生命の有限性(自分の世界はいつか消える)と、

認知の外には何もないと言う事実を明らかに見て、直面する事だと言う事が出来ます。

 

その上で、目の前で展開していることに、血眼になる事を選ぶのか、選ばないのか、と言う視点を持つ事で、何かに依存したり、焦ったり、没頭しすぎたり、と言う事から距離を置けるのではないでしょうか。

 

人のいのちは有限だと言う事実は変わらないけれど、

 

その時間の中で、

「今」と言う時間は

(細かく切っていけば、時間の最小単位に至りますが、)

その最小単位の時間がどれだけあるのか、その分だけ、ほぼ無限にあると言っても過言ではありません。

 

今、どんな状態なのか。

その状態を見たとき、「何かが根本的に足りてない」と思うのは何故なのか。

そして、「足りてる事」への条件を満たしたとき、本当に「足りてる」と感じられるのか。

今まで、何かを達成した後、次に向かおうとする足を止めて、じっくり達成してる今を感じる事が出来たのか。

満たされたと思える時間が持てたとして、心の奥にある虚しさを根本的に満たす質のものだったのか。

 

自分がどうなれば本当に満たされた自分になるのか、問いかけは無数に立てられます。

 

 

 

 

そんな引きの目線で見た上で、

「人生ゲーム」を挑戦と冒険の舞台として楽しむとき、「今」に余裕を持って挑める事ができるのかもしれません。

 

スマホSNSに依存しないで済むのは、今、この時点の自分が無条件で満たされていて、空虚さから脱している。と言う心のあり方なのかもしれません。

 

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安心感の雰囲気

おはようございます。

 

昨日の夜は、一昨日と同じ場所へ、友達のDJ姿を見に行きました。

 

ミラボールが回るライブハウス内に入ると、友達がいて、仲良く話しながら開演を待ちました。

 

一曲目は懐かしの「恋の呪文はスキトキメキトキス」懐かしくて涙がちょちょぎれそうになりました。

 

その後も懐かしい曲が様々展開して…。

 

落ち着いた雰囲気の中、音楽を堪能したのでした。

 

その友達はいつも周りをエンパワメントしている人で、若いながら尊敬できる人だな、と感じていました。

 

一緒にいると安心する様なタイプの人で、不安を煽らない人だから一挙手一投足が安心感を招くのかもしれない…。と。

 

結局、どの人も大事にされたい思いがあるからこそ、その思いに応えられる人がみんな大好きなんだろうとそう考えたりしました。

 

ライブ観戦日記

おはようございます。

この記事までたどり着いて頂きありがとうございます。

 

昨日、ライブを聴きに行ってきました。

 

東京から大好きなシンガーソングライターがやって来るというので、楽しみにしていたのです。

 

会場は冷房で冷えていて、外の生温いジメッとした空気からのギャップなのか、とても快適に感じました。

 

カウンターではビールを。

 

冷えた生ビールはこんな天候の時は美味しいなーと、すぐに飲み干してしまいました。

 

「対バン形式」と呼ばれているイベントの方式がありまして、何組もの出演者を出演させて、企画を成り立たせているというやり方で、今回のライブも行われていまして、

 

最初から、ゆっくりと弾き語りの人たちの演奏を堪能させていただきました。

 

昨日は日中も用事があり、歌って欲しいと言われていたので、ギターを背負って出かけました。なので、帰り道、久々にI中央駅の中で路上ライブをしました。

 

バスが来るのは15分後…という事で、ゆっくりもしてられなかったのですが、歌ってみると…

 

見事に誰も聴いてくれませんでした笑

 

何となく、色んな事が心に迫って来て、身の置き場が無いような気持ちになったり、時には自分の持ち前の武器とも言うべき「通る大声」で歌ったり、人に聴かせようとするといろんな事を思います。

 

さて、昨日一番楽しみにしていた謡人の人の演奏はとても気持ち良さそうで、観客の人たちを取り込んでみんなを盛り上げてくれたトークもまた素晴らしく、

 

バックステージで会って話した時も、屈託の無い笑顔で、とても良くしてくれました。

 

見ていると、みんなその人の事が大好きな様で、みんな楽しそうに出演後の会話に花が咲いていました。

 

自分も含め、その日の出演者を全部見ていて、思ったのは、

 

やっぱり単純に気持ちのいい人、気持ちのいい演奏は、そのまんまでこっちまで気持ちよくなってしまう。という事でした。

 

逆もしかりなんだなあ。とそう思ったのです。

 

自分らしく居る事。楽しいという事。自分が気持ちいいという事。

 

 

そこに打算が無い人ほど、その先のもっと大切な事にアプローチ出来るんだろうな。とそう思ったのでした。

 

帰り道も生温い仙台の空気の中で、ソフトクリームの様にとろけそうになりながら帰宅しました。

千葉ケイコさん企画「心に灯りが灯るまで」

こんばんは。

 

今日は明鏡止水と言う面白くて不思議な講座を受けて、だいぶエネルギーアップしたのを感じたまま、思いつくようにCafe B.B.と言うライブバーへ行きました。

 

Facebookページを帰り道の地下鉄で見てみたら、たまたま今日が「心に灯りが灯るまで」の日だった事を知り…。

 

急いで向かって開演6分後に着きました。

 

最初の出演者は岩手→仙台→神奈川と渡り歩いたあと、再び仙台へと戻ってきてくれたと言うキーボード弾き語りの女性でした。

これから楽しみだな、と思います。何故なら沢山話したから!

覚えていてくれた先に、共演とか出来たなら幸せだろうな、と思いました。

 

その後、大阪、関東の方、そして千葉ケイコさん自身のバンド、と見ていまして、凄く幸せな気持ちになってしまいました。

 

日々の苦しみを歌う歌が有りながら、何故かその人の良さや、心の温かさが伝わってきます。

 

千葉ケイコさんはとてもいい雰囲気の方で、この人のライブはまたみたいな!と思ったのが三月十一日に行われた同企画を見た時。

 

心に灯りが灯るまで、とは、

 

震災の際に灯りを灯して過ごした日々、そして、その先にある心が救われるまでの時間の流れを思い描いた題名、と、言う事みたいです。

 

つくづく、あったかいなーと思います。

 

ミュージシャンをしている人はどこか影のある人が多いですし、それは他のすべての人も同じですよね。

 

悲しみが深いほど、温かくなれる。

 

陰極まって陽に転ず、とはよく言ったものです。

 

そして、その闇が感じられる人であるほど、その人が放つほとばしる温かさは光を増していく様な感じがしていました。

 

一言一言に、まるで聴く人のエピソードに、逆に耳を傾けるような共感の力と、それを屋台骨で支える根拠の様な体験の重みがあります。…というか、そんな気がする!笑

 

僕が歌い始めた理由はそこにあります。

 

大好きなミュージシャンのメッセージ性の部分が好きになり、自分の使命を漠然と感じました。

自分が感じてきた事はもしかしたら根拠として、表現に繋げられるかもしれない。

 

人の心を癒す様な、人間味溢れる、暑苦しい歌が歌いたい!

 

嫌われることもありましたけど、少数の人の心には受け取ってもらえました。

 

自分が満たされると言うのも正直ありました。

 

でも、今になって思うのは、自分のもっと正直な聴く人への純粋な思いが相手の気持ちの中で感じてもらえたとき、そしてそこに何か心の笑顔が生まれた時、本当にやっていてよかった、って思えていたのだと言う事。

 

聴いている人が僕の歌を聴いてから、幸せを心から感じられる様なエピソードを人生に起こす事が出来たなら、もっと喜ばしい事です。

 

千葉ケイコさんのいい雰囲気は、そんな純粋な気持ちが沢山含まれた、そんなライブ活動への思いがそこにあるからなのかもしれません。

 

他の出演者の方々も本当に素晴らしかった。

久々に瑞々しいエネルギーでお腹一杯になりました。

 

感動をありがとうございました😊

 

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